2004年講談社
「つまりさ、一度でも孤児になったものは、死ぬまで孤児なんだ。よく同じ夢を見る。僕は七歳で、また孤児になっている。ひとりぼっちで、頼れる大人はどこにもいない。時刻は夕方で、あたりは刻一刻と暗くなっていく。夜がすぐそこまで迫っている。いつも同じ夢だ。夢の中では、僕はいつも七歳に戻っている。そういうソフトウェアってさ、いったん汚染されると交換がきかなくなるんだね」
マリはただ黙っている。
「でもそういう面倒なことは、普段はなるたけ考えないようにしているんだ」と高橋は言う。いちいち考えても仕方ないことだからさ。今日から明日へと、ごく普通に生きていくしかない」
「たくさん歩いて、ゆっくり水を飲めばいいのね」
「そうじゃなくて」と彼は言う。「ゆっくり歩いて、たくさん水を飲むんだ」
# by n__hana | 2012-01-15 12:51 | 小説
2007年文藝春秋
Pain is inevitable. Suffering is optional. それが彼のマントラだった。正確なニュアンスは日本語に訳しにくいのだが、あえてごく簡単に訳せば、「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」ということになる。たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとして、「きつい」というのは避けようのない事実だが、「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられていることである。この言葉は、マラソンという競技のいちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う。
僕は空を見上げる。そこには親切心の片鱗のようなものが見えるだろうか? いや、見えない。太平洋の上にぽっかりと浮かんだ、無頓着な夏雲が見えるだけだ。それは僕に何も告げてはくれない。雲はいつも無口だ。僕は空を見上げたりするべきではないのだろう。視線を向けなくてはならないのは、おそらく自らの内側なのだ。僕は自分の内側に目を向けてみる。深い井戸をのぞきこむみたいに。そこには親切心が見えるだろうか? いや、見えない。そこに見えるのは、いつもながらの僕の性格(ネイチャー)でしかない。個人的で、頑固で、協調性を欠き、しばしば身勝手で、それでも自らを常に疑い、苦しいことがあってもそこになんとかおかしみを―あるいはおかしみに似たものを―見いだそうとする、僕のネイチャーである。古いボストンバッグのようにそれを提げて、僕は長い道のりを歩んできたのだ。気に入って進んでいたというわけではない。中身のわりに重すぎるし、見かけもぱっとしない。ところどころにほつれも見える。それ以外に運ぶべきものもなかったから仕方なく運んできただけだ。しかしそれなりに愛着のようなものもある。もちろん。
# by n__hana | 2012-01-12 16:08 | エッセイ
1994年新潮社
なんていうのかな、あなたのことを見ていると、まるであなたが私のために一生懸命何かと闘ってくれているんじゃないかという気がすることがときどきあるの。変なはなしだけど、そう思うとね、私まで一緒になってだらだら汗をかいちゃうのよね。わかるかな? あなたはいつも涼しい顔をして、何がどうなっても自分とは関係ないという風に見える。でも本当はそうじゃない。あなたはあなたなりに一生懸命闘っているのよね。他人にはそう見えなくてもね。でなきゃわざわざあんな井戸の中になんか入らないもの。そうでしょ? でももちろん、ねじまき鳥さんは私のためではなく、あくまでクミコさんを見つけるために、ばたばたとみっともなく何かを相手にトックミあっているのよね。だから何も私がわざわさ汗かくことなんかないのよ。それはわかっているんだけれど、それでもやっぱり、ねじまき鳥さんはきっと私のためにも闘っているんだという気がするんだ。ねじまき鳥さんはたぶんクミコさんのために闘いながら、それと同時に、結果的に他のいろんな人のためにも闘っているんじゃないかってね。だからこそあなたは、ときどきほとんどバカみたいに見えるんじゃないかしら。そういう気がするな。
# by n__hana | 2012-01-12 15:53 | 小説
1998年新潮文庫
あるいは、こんなことも考えられる。「努力によってものごとは解決する」と単純に考える人は、「解決」の方に早く目がゆきすぎて、努力に腰がはいらないのである。野球の守備で併殺をしようと、ちらりと走者を見たばかりにエラーをしてしまうのとよく似ている。大事なのは、まず球を受けとめることなのだが、心は、結果としての併殺、あるいは観客の拍手の方に行ってしまうので、せっかくの努力もミスに終ってしまう。人生では、このようなミスをしていても気づかずに、努力しても報われないなどと嘆くことになる。
頭書の言葉が随分と好きになったので、よく口走っていたら、「それにしては、あなたはよく努力するじゃないの」と言われたことがある。それに対して、私は「努力によってものごとは解決しない、とよくわかっているのだけど、私には努力ぐらいしかすることがないので、やらせて頂いている」と答えたことがある。他にすることがないのでやっているが、別に解決を確信しているのではないのだ。
努力によってものごとは解決しない、と知って、一切の努力を放棄して平静でいられる人は、これは素晴らしくて、何の言うこともない。努力とか解決とかいう次元は、この人にとって関心事ではない。しかし、われわれ凡人は、努力を放棄して平静でなど居られない。いらいらしたり、そわそわしたり、近所迷惑なことである。そんな状態に陥るくらいなら、努力でもしている方が、まだしもましである。それにひょっとして解決でも訪れてきたら、嬉しさこの上なしである。こう考えて、まあ努力でもさせて頂こうかとやっていると、解決が簡単に訪れないからといって、怒る気も嘆く気も起こってこない。
「過保護はいけない」、「甘えさせることが大切」などの考えは、それはそれなり一理があって間違いだなどとは言えない。しかし、それは目先を照らしている灯のようなもので、その人にとって大切なことは、そのような目先の解決を焦って、灯をあちらこちらとかかげて見るのではなく、一度それを消して、闇のなかで落ちついて目をこらすことである。そうすると闇と思っていたなかに、ぼうーと光が見えてくるように、自分の心の深みから、本当に自分の子どもが望んでいるのは、どのようなことなのか、いったい子どもを愛するということはどんなことなのか、がだんだんとわかってくる。そうなってくると、解決への方向が見えてくるのである。
不安にかられて、それなりの灯をもって、うろうろする人(このことをできるだけのことをした、と表現する人もある)に対して、灯を消して暫らくの闇に耐えて貰う仕事を共にするのが、われわれ心理療法家の役割である。このように言っても、闇は怖いので、なかなか灯を消せるものではない。時には、油がつきて灯が自然に消えるまで待たねばならぬときもあるし、急を要するときは、灯を取りあげて海に投げ入れるほどのこともしなくてはならぬときがある。そんなことをして、闇のなかに光が必ず見えてくるという保証があるわけでもない。(中略)
別に心理療法なんかを引き合いに出さなくとも、目先を照らす役に立っている灯ーそれは他人から与えられたものであることが多いーを、敢て消してしまい、闇のなかに目をこらして遠い目標を見出そうとする勇気は、誰にとっても、人生のどこかで必要なことと言っていいのではなかろうか。最近は場あたり的な灯を売る人が増えてきたので、ますます、自分の目に頼って闇の中にものを見る必要が高くなっていると思われる。
# by n__hana | 2011-12-20 09:32 | エッセイ
1983年せりか書房、2003年講談社学術文庫
セノイ族の「夢解釈」は正確にいえばふつう「解釈」といわれているものとは違う。夢の内容になにかの意味を読みとることよりも、彼らの関心は夢の世界にさまざまなかたちをとって現れてくる、あらゆる力を支配しコントロールすることによって、夢の内容を「鋳直し」、心的な力に有用な方向づけをあたえていくことにある。だから彼らの「夢解釈」は夢を理解することではなく利用することを、つまりは夢見のプラグマティズムをめざしているのである。
そのため例えば朝食の時間に自分の子供から、「ゆうべはとても恐い夢を見たよ。どんどん下の方に落ちていくんだ」という報告を受けたセノイ族の父親は、こんなふうに答えることになる。
「そいつはとてもすばらしい夢を見たもんだ。たぶん最高の夢といっていい。ところでそのときお前はどこへむかって落ちていった? 途中でどんな景色を見た? いってごらん」
「あんな夢、すばらしいどころか気持ちが悪くなってしまったよ。あんまりビックリしたから、どこへ落ちていくかと見とどけるまえに目が醒めてしまったよ」と子供が答える。
すると父親。「もったいないことをしたもんだ。夢のなかで起こることにはみんな目的ってものがある。けれどそれがお前の理解力を越えているからわからないというだけなのだ。お前に必要なのはリラックスして、夢のなかで落下していくのを楽しめるようになるってことだ。落下こそ神霊の世界に触れるためのいちばんの近道だし、夢のなかでこそ力の領域が開かれてくる。だから夢のなかで落ちはじめたなということがわかったら、すぐに父さんが今いってることを思い出すんだ。そうすればお前は、お前に落下の夢を見させている力の源泉にむかって旅をしていくことができるようになるだろう。ようするに落下の霊はお前のことが好きなのさ。だからお前の気をひいて、そっちの世界に連れていこうとしているわけだ。リラックスして眠りつづけ、彼らの誘いについていけ。彼らはお前をたまげさせるほどの力の持ち主だ。そりゃあ、ものすごい力だ。だけど、それでも彼らの後についていかにゃならん」
セノイ族の子供たちはどんな夢を見ても(それがエロティックなものであればあるだけ)、それに罪悪感をいだいたり、ひた隠しにして抑圧したりしてはいけないと教えられる。そのうえで父や兄のアドバイスを受けながら、しだいにしだいに自分の見る夢の内容にコントロールを加えることができるようになる。こうして多くの場合、恐ろしい落下夢はいつしか喜びあふれる飛行の夢に変容し、子供は嬉々として夢の世界に分け入り、楽しい冒険を続けられるようになると、この人類学者は報告している。
# by n__hana | 2011-12-16 08:24 | 批評・思想
2009年集英社新書
僕は、そういう生き方を見ると、サバンナを行く水牛の群れを思い浮かべる。一頭一頭はなにも考えず、ただ前進しているだけである。周囲の風景を眺めているふうでもなく、自分の将来や過去を考えているわけでもないだろう。人間でいえば、社会の一員として、平均的な家庭を作り、毎日通勤電車に揺られて出勤し、夜はときどき酒を飲んでみたり、流行を気にしてファッションに気を遣ってみたり、仲間から遅れることを極度に恐れ、逆に自分だけ突出することも避ける、大過なく役目を全うし、つつがなく人生を送る、というような、よくある「光景」である。
僕は、そういった光景を「支配された不自由だ」と感じる。だから、この本を書いている。しかし、そう感じない人たちがとても多いことも知っている。感じない人にとっては、不自由でもなんでもないから、そのままで問題はないのかもしれない。(中略)
まず、この支配から「抜け出す」というイメージが問題だと思う。「支配」という言葉を使っているから、自然にそこから「逃げる」という表現になってしまうのはしかたがないにしても、そういった後ろへ下がるイメージは不適切だと感じる。
実は、もっと積極的な方向なのだ。逃げて遠ざかるのではなく、そちらへ歩み寄る、近づく、乗り越える、といった方が良い。
さて、巧妙な支配は、この「空気」に潜んでいることだってある。「周りに遅れをとってはいけない」といった不安を植えつけることによって、必要もない商品を買わせたりすることができる。
空気を読むことで、流れに逆らわないことも必要だが、空気を読むことで、余計な流れに巻き込まれることだってある。
流れに乗っているときは、自分の身近に摩擦が生じない。周りも同じ速度で流れている、それが「流されている」状態だからだ。しかし、少し遠くを見ると、自分が思いもしない危険な方向へ向かっていることに気づく。このように、身近なところに囚われてばかりいると、大きな損をする危険性がある。
近くだけでなく、ときどき遠くを眺めること、これがつまり、自分の客観的な位置を測ることであり、これによって自分の立場を知ることができる。
挫折を恐れず、絶対に諦めるな、といっているのではない。早く諦めて、進路を修正する方が良い場合はある。最初に掲げた目標がどうも実現不可能だとわかったときには、よくよく考えたうえで修正をする。これも選択できる道の一つである。本質は何であり、その本質のために切り捨てられるものは何か、という思考になるだろう。
「妥協」といえば言葉は悪いが、少なくとも「撤退」ではない。実現することが大切だと考えれば、「迂回」も戦略として取り入れるべきだ。このときも、「目標」という過去の自分の決心に囚われる必要はない。自分は常に自由であり、人から「ぶれている」「優柔不断だ」などと言われることなど(多くの場合、単なる想像でしかないし)気にする必要はない。むしろ、そういう他者の評価に左右され、目標に到達できないまま立往生することが、ぶれているし、優柔不断である。
支配は、ある意味で楽な状況である。楽しい状況にもなりうる。人間の習性として、そういうものがある、と既に書いた。これを逆に利用して、自分で立てた計画に支配されると、日々そのとおりにノルマをこなしていくことが、わりと苦痛でなくなる。あるとき気づくと「お、こんなに進んだか」と嬉しくなることだってある。進むこと自体が楽しく感じるのだ。怠け者の自分にも、こんなことができたのだ、と嬉しくなるのかもしれない。(中略)
与えられたノルマは、どうも有難味がない。だから、仕事や労働は普通の感覚からすれば楽しくはない。しかし、目的が見えていて、自分自身で計画をしたノルマは、一歩一歩の前進の手応えが嬉しい。この感覚は、やってみると必ず体感できるもので、これだけでも充分楽しい。たとえ目標が達成されなくても日々の充実感は得られるし、これ自体がもう「自由」なのではないかと思えるほどである。
自分が立てた目標だけでなく、社会にはいろいろな基準がある。それらに挑むときには、それを下限だと考えず、上限だと見なし、「これ以上のことをしてはいけないのか?」と疑ってみる。そうすることで、自分の中で自由な気持ちが生まれるように僕は思うのだ。
もう少し別の言葉にすると、守ることよりも攻めることが自由なのである。守りに入ると不自由だ。守らなければならないものが既に存在していて、それに支配されている状態に陥る。攻めるといっても、相手が指定されていると不自由だ。しかし、この場合の「攻める」とは、未開のものへ挑戦する姿勢のことで、どちらへ進んでも良い。360度視界は開けている。
# by n__hana | 2011-12-15 12:21 | 新書
2011年朝日新書
私自身も、「この人はあまりにも慢が強くて嫌だな。苦手だな」と思う人はもちろんいます。そういう人とはなかなか平常心で向き合えずに、心が乱れてしまいがちなものですから、なるべく敬して遠ざけるようにしています。
他方で、この「苦手意識」を軽減する方法として、「慈悲の瞑想」というものがあります。その人の慢を想像し、その苦しみを理解しようと瞑想することで、苦手意識が薄れ、いつもより平常心で向き合えるようになります。
慢が強い人は、「愛されたい」と願いつつそれがかなうどころか、嫌われて避けられている人ですから、こちらが平常心で向き合うだけで、その攻撃性が多少、軽減される可能性もあります。己の無力さから逃げている人なんだなと、相手を受容することが建設的なアプローチとして、相手の攻撃性を緩める作用を発揮するかもしれないのです。
そういった情報によって、分不相応な成功を手に入れることが幸せであると、若い頃から刷り込まれています。その無理をできることが、人間としての大きさである、といった思い込みです。
そういった思い込みを捨てて、自分の慢を戒め、誠実にやっていれば、相応な成功が手に入るのですけれども、自分の能力を超えたものに手を伸ばそうとするので、多くの人が重い通りにならずに苦しんでいます。
周りの人の慢につけ込んだ無理な人間関係ではなく、少数でも信頼関係に裏打ちされたきちんとした人間関係を築いていく。それこそが本当の財産となりますし、そういう人間関係を少しずつ築いていけば、その先に分相応な成功が手に入るはずです。それは、リラックスして、平静で、安定した「平常心の幸せ」といえるものです。
心が不快状態に自分から陥ってゆくバリエーションには、漠然とした「不安」というものもあります。なつかしく思い出されることには、かつて私はふっと手持ちぶさたになったとき、何が何だかわからないけれど「何かが不安で」、いてもたってもいられず苦しくなる、ということを時々、体験していました。過去に特定の人や物や事に対して不快になった業が心に刷り込まれ、その不快感が反復するときに、具体的な対象抜きにただ不快になることもあり、そんなときは漠然とした不安を抱くのです。(中略)
このように、わけもなく不安になるときも、勝手に先読みして恐れを抱き苦しい状態のときも、「また、神経システムによって不安を感じさせられているんだな」と認識することで、苦痛は緩和されます。あるいは、「過去に起こったことがまた起こるんじゃないかと、先取りして恐れを感じているんだな。あのとき拒絶したことによって、また拒絶せよと命じられているんだな」と過去も含めて、認識するのです。
受け容れるということに関して申しますと、簡単には受け容れられない「自分の弱さ」も認めて、受け容れることが大切です。たとえば誰かに何か心ない言葉をかけられて「いやだなあ」と思っているとしたら、そのときに、「ああ、自分はこういう言葉をかけられると、すぐいやだと思ってしまうような、弱い人間なんだな。そうか。弱いな、自分は」という具合に、自分の弱さを受け容れるのです。
そもそも傷ついてしまうのは自分の「慢」に起因しているともいえます。「慢=プライド=自分で自分に対して抱いているイメージ」ですから、そのイメージと違う言葉を投げかけられると、傷ついたり、あるいはそれを拒絶して、相手に対する怒りが猛然とわいてきたりするわけです。この慢も、言い方を換えれば妄想ということになります。事実でも何でもない立派な自分のイメージを、自分のなかで事実として妄想していき、その妄想にとらわれてしまう状態です。
# by n__hana | 2011-12-14 10:32 | 新書
2008年光文社
「そいつは『夢』をあきらめる」
仲間や女に甘ったるく慰められて、自分の「夢」をあきらめることが、田村への最大の償いだとするな、きっと、とひと息にいった。今どきの若い者は、という顔をして、J&Bをあおる。
「・・・どっちなんですか」
花輪春彦がJ&Bのボトルを持って、キャップをひねりながら、訊いた。
「かれに夢をあきらめてもらいたいんですか、もらいたくないんですか」
からになった池内暁のグラスを引き寄せる。おれがいいたいのは、と、池内暁が呟いた。少し間をおき、わかってんだろ? と目をあげる。大げさに首をかしげてみせる花輪春彦に向かって、いった。
「どっちにしたって、それは、償うってことにはならないだろうよ」
いや、あくまでもおれの解釈だし、実際、そいつがなにを考えているかなんてわからないけどな。
わかりますよ、と花輪春彦が深くうなずく。
「わたしたちの話は、償うということ、に、移っている」
(中略)
わかりますよ、と花輪春彦がまたいった。オンザロックのおかわりを差しだす。
「話は、償う、から、誠意を見せろ、に、移りつつある」
「ぶっちゃけ、金だろって話になってきてるな」
「夢」を追いかける若者にとっちゃ、さぞや汚らしく聞こえることばだ。池内暁はすっきりと笑った。大人はよごれている、みたいな新しい名曲が生まれそうだ。
花輪春彦も笑っている。
「でも」
「だけど」
ふたり同時に口をひらいた。お先にどうぞ、と花輪春彦が手首を帰して、てのひらを上にする。軽く頭を下げてから、池内暁がいった。
「働いて、毎月ちょっとずつでも田村に金を支払いつづけたら、そいつは、たぶん、もっとすごい曲を書けるはずだ」
「『全速力で走れよ、きみ』、ですね」
# by n__hana | 2011-12-13 10:48 | 小説
1983年講談社、2011年講談社文庫
たとえば、ついさきほどもこんなことがあった。夏の終りに近い月曜日のことである。図書館は月曜日が休日だから、正子は一日家にいた。
「正子、おまえ、なにか気にいらないことでもあるのかい」
夕方、正子を台所でつかまえて、おかあさんがそうっとたずねた。正子はだまったまま、一重まぶたの大きな目で見かえしただけで、なにも答えなかった。おかあさんは、ますます心配そうな口ぶりでつづけた。
「だっておまえ、きょうは朝から、一度も口をきいていないじゃないの」
「あら」と、はじめて正子はいった。
「そうだったかな」
「そうだったかな、って、おまえは自分で気がついていないのかい」
おかあさんがあきれていうのに、正子は、なんだつまらない、という顔をしていった。
「朝は洗濯をして、そのあと読みかけの本があったから、ずっと読んでいて・・・べつに話すこともなかったから、だまっていたんじゃないかしらね。ね、おかあさん、おかあさんはどう思う」
どう思う、なんていわれて、おかあさんはため息をついた。
「年ごろのむすめだと思って、こっちが心配しているのに、ヘンな子だねえ」
そう、つまり正子はヘンな子なのである。
おとなしいくせに気が強く、器量がわるいくせに、どこか気どっているように見えた。ぼんやりしているようで、めったに失敗をしない。勉強はあまりできないと思われていたが、それほどできないわけではなかった。
そんな正子を、男の子たちはなぜかきらった。むだなおしゃべりはしないし、みんながげらげらわらっているなかで、ひとりだけしんと静かにしているし、そうかと思うと、まわりで口げんかがはじまっても、横に立ったまま、じっとながめていたりする。
「やい、なにをじろじろ見てるんだい」などど八つあたりされても、けろりとしている。だからといって、とっつかまえていじめようとすれば、あっというまににげてしまう。そうなったらもう、すばしこい正子の足には、男の子でもめったに追いつけなかった。
こんな子がなかまにいたら、男の子でなくたって、調子がくるってしまうだろう。それで女の子たちも、なんとなく正子に近よらなくなった。
それでも正子は、ひがんだりうらんだりはしなかった。どうせ自分はヘンな子なので、いっしょにいてもつまらないのだろうと、あっさり考えていた。自分から友だちをつくろうなどとは思ったこともなく、いつもひとりですごした。本はすきでよく読んだが、本がないときは、とっぴな空想をひろげて楽しんだ。
小学生の正子がとりつかれていた空想は、自分の守り神のことだった。自分には自分だけの守り神がついていると考えて、正子はそのすがたをあれこれと思いえがいた。てのひらにのるほどの小さな神さまだが、あるときは白いひげのおじいさんだったり、あるときはやさしい仙女さまだったり、またあるときは自分と同じような小さな女の子のすがただったりした。どれがいいか、自分でもなかなかきめられないでいた。
# by n__hana | 2011-12-12 16:29 | 児童書
2002年文春文庫
「どういうつもりかっていうとね、あいつ、神の役を演じてるのよー人に歴史を与えたり、奪ったりしてさ!それが神を演じてるんでなくてなんなのよ?」
ホーマーはこれを聞き流した。ドクター・ラーチがほかにいろんな点で神を演じているのを、彼は知っていたし、ドクター・ラーチがかなりうまく神の役を演じているというのが、依然としてホーマーの慎重な意見だった。
ドクター・ラーチはこう書いている、「ここセント・クラウズでは、わたしは神の役を演じるか、それともほとんど一切をなりゆきにまかせるか、二つに一つの選択を迫られてきた。わたしの経験では、たいていの場合、ほとんど一切がなりゆきにまかされている。善悪の別を信じ、善が勝つべきだと信じる者たちは、神を演じることが可能な折を期して待つべきであるーわれわれはそういう折をすばやくとらえるべきである。たびたびはあるまいから。
ここセント・クラウズではとらえるべき折はよそで見つかるより多いかもしれないが、それはこっちにまわってくるもののじつに多くがすでになりゆきにまかされたあとだからにすぎない」
# by n__hana | 2011-12-09 18:42 | 小説
2011年講談社文庫
化粧をする行為というのは、鏡を見て「これは自分である」ということを確認することが前提になっています。そして、鏡を見てそこに映る姿が自分であることがわかるのは、「ミラー・セルフ・リコグニション」というのですが、これができるのは人間とチンパンジーとオランウータン、ゴリラ、イルカ、シャチ、そしてゾウとカササギしかいないんです。今のところ、これらの動物しか「ミラー・セルフ・リコグニション」はできなくて、他の動物、犬や猫なんかはこれができないんです。ということは、犬や猫は自分がどういう姿かということを知らなくても、生きていけるんですよ。
でも人間はそうはいかない。僕たちは毎日、自分がどういう顔をして他人に接しているのか、他人がどういう顔で自分に接しているかを、否応なく認識しながら生きています。つまり我々の自己認識は、知らず知らずのうちに視覚的なイメージによって、作り上げられてしまっているのです。
そうしたら彼らのうちの一人がこう言うんです。
「障害や偏見というのはなくならないかもしれない。けれども『ダイアログ』を通せば、これを個性に変えることができる」と。
もうひとつ印象的なセリフがありました。
「人は変われるよ。その証拠に『ダイアログ』に行ってごらん。ちゃんとそこに証明するものがあるから」
# by n__hana | 2011-06-06 22:13 | ノンフィクション
2010年毎日新聞社
「後悔ってあなたを産んだことを?」母は言い、目を細めて空を仰ぐ。「無敵の気分って、わかる? あなたさ、不妊治療のこと、敦さんに話したとき、無敵の気分じゃなかった? こうしたいんだ、だからするんだ、するって決めたらできるんだ、って。私はそうだった。生まれたのがあなたでも、あなたでなくても、後悔なんかしなかった。後悔しているただひとつのことは」樹里は母を見る。母は顔を陽にさらしたまま、言う。「しあわせを見くびっていたことかな」樹里に視線を移して母は微笑んだ。
# by n__hana | 2011-05-23 18:43 | 小説
2010年岩波書店
「君の身上調書を見ると、どうやら家庭は経済的に相当苦しかったようだ。それなのに君はどうして、大学では哲学科を選んだのかね。あまり金にもなりそうもない哲学を、なぜ勉強しようと思ったのかね」
来た!と思った。ひょっとしてこういう質問が飛んでくるかもしれない、と思ってはいた。
(中略)
佐佐木さんの質問は私にとって、もっとも答えにくいものだった。しかし同時に、それでも訊いてもらいたいことであった。矛盾する二つの気持が、たしかにあった。しっかり勉強しました、とはとても恥ずかしくて言えない劣等生だったが。一目惚れのように田中ソクラテスに魅かれ、育英会の奨学資金、家庭教師のアルバイト料、授業料免除。生涯洋裁をつづけた叔母の仕送り・・・・・・などで、家の経済のことは考える余裕もなく過ごした四年間のことは、上手に説明できなくても、聞いてほしいことであった。
何気ない質問にも、発する人の生活や思想がどうしようもなくにじみ出るものだ。相手の何に目を止め、何を訊くのか。質問は相手の生き方、考え方を引き出す誘い水にすぎないようでいて、実はその誘い水の中には聞き手の生き方、生活体験、思想の脂が、キラキラ光っていなければ、まともな質問にならないのだと知った。
# by n__hana | 2011-05-19 08:11 | エッセイ
1983年晶文社
「一度銀行で働いたこともあるけど、いいかね、ありゃ、ただの紙きれで、ほんものじゃあない。九時から五時までなんてタマラないよ。数字ばかりにらんでさ。こっちはにらみかえして、こういえるんだ。『おれは火事を消したんだ。人を救うのに手をかしたんだ』って。おれのやったことが、この地上にはっきりのこるんだぞって」
さて、ターケルの偉大さはなにかといえば、彼がまれにみるすぐれた才能の持ち主で、この本にあつめられた聞き書きが、いずれも話し手の本音をうまくひきだしていることだろう。それぞれの魂が、社会理論とか文芸作品という製造加工でうすめられたり、まぜあわせられたりせずに、それぞれのことばでしゃべっている。これはすごいことだ。もちろんテープレコーダーがなかったら、この本は不可能だった。そんなことはあたりまえだけれど、やはり、はっきりさせておくべきだ。(訳者あとがき)
# by n__hana | 2011-05-18 20:23 | ノンフィクション
1994年、七賢出版
ジャック・マイヨール、六十七歳。髪はだいぶ白いけれども、身のこなしはきびきびとして、力があふれている。とてもその歳には見えないと会った誰もが言う。背はフランス人にしては高い方ではない。体格は痩せて見えるが、実は必要充分なものをすべて備えて、それ以外の余計なものは何一つないという完璧な形である。表情は豊かで、考えていることを素直に反映する。時に憤然とすることもあるが、笑った顔は魅力的で、思うことを正直に顔に出して生きてきた人だとわかる。いつも気持ちそのままの自然な顔。
# by n__hana | 2011-04-25 20:48 | 写真・絵画